Entries

紅葉の頃

 今年も紅葉前線が南下してくる時期となった。
 一枚一枚が葉脈まで透けて見えるほど真っ赤になったモミジの葉と、木漏れ日に照らされた白樺の黄色の葉の小径を通り抜けるとき、毎年のことなのに新たな感動を覚える。
 こんな紅葉の美しさを身体で感じることができる人は本当に幸せ者だ。

 だが、そんな紅葉も永くは続かない。
 落葉の時期、木枯らしに吹かれて舞い落ちる木の葉は都会ではどちらかと言えば厄介者だ。強くて寒い風が落ち葉を舞い上げ、風の当たらない場所に吹き溜める。せっせと竹ボウキで掃き集める朝が何日か続く。「たき火だ、たき火だ、落葉焚き」ともいかないから誰かが作業をさせられる。
 
 一方、自然界では作業をする者はいない。植物は夏の間、緑の葉の工場で太陽の光をエネルギーにして、水と二酸化炭素から光合成によって養分を作る。緑色だった葉が紅葉して落ちれば、その養分も森の栄養になる。舞い落ちる木の葉は強い風に吹かれて森の窪地に溜まる。窪地には、雨やみぞれや雪も溜まり、葉を朽ちさせ微生物活動を助ける。その微生物をエサに様々な生物が育ち、それをさらに上の動物が捕食する。森の食物連鎖だ。完成された循環社会。何百年も生きる木々は、もうすべてをお見通しのように、自ら葉を落として水分摂取を減らすとともに、周囲に養分を与え、春に備えるのである。木々は、こうして一歩も動くことなく生まれついたこの場所でずっと生きてきたのである。

 人間といえば、科学を武器に自然を制覇することに躍起になって、昼夜の区別も夏冬の区別もなく、エネルギーを消費して行動範囲を拡大してきた。しかし、ここにきて地球温暖化や、人工知能の恐怖におびえている。ある意味では随分非効率なことを続けているのかもしれない。地球の四季と連動することで得られる効率化にもう少し目を向けていれば何かが変わったかもしれない。熊が冬眠するように、太古の時代は人の身体も季節の変わり目で何らかの変化をしていたのであろうか。

 よく分からないが、それでも今日よりも寒い明日がやってくる。

ケリをつける

 「けり」 は完了の助動詞である。
 古文に出てくる~しけり、~になりにけり、など。
 最後に「けり」をつけることから、これにて決着がつき、ようやく終わったとなる。

 ところが、最近はこの「けり」がつかないことが多くなった。
 自分の性格によるところも多いかもしれないが、世の中が複雑になっていることも大きな要因だ。
 自分は覚えるよりも考えることが多い人間で、人の話を聞いていても、話の中の何か一言に反応して自分の世界に入ってしまい、そこからまた別のことを連想したり、空想したりしてしまうのだ。
 しばらく考えて、思いついたように目の前の話を聞き、それでも、何かの拍子に前に考えていたことを思い出せば、その続きを考えてしまうから、頭の中はいつも結論を出せないことや片付かないことでいっぱいになる。

 最近、「今後10年間で無くなる職業」という記事を読んだ。
 頭の中には、急に未解決の問題が増えた。タクシードライバー、農業者、レジ係、経理の事務員、銀行の融資審査係、税務や法務の資格者もその中に入っていた。
 確かに、ルーチンワークや定型的な判断と動作がほとんどといった職業は、この先ロボットにとって代わられる運命かも知れない。

 たとえば、農業者はどうなるのだろう?
 無人のトラクターが肥料をまき、畑を耕し、種を植え、草取りをし、収穫をする。ビッグデータ-から様々な条件を取り出し、計算に基づいて忠実に作業をしていくロボットのほうが技術は上になるかも知れない。
 農業労働者は転職するしか道がないのか。愛情をもって育てた作物もロボットが育てた作物も味は一緒なのか。愛情があれば美味しいなんて元々錯覚なのか。なら逆に、ロボットばかりの地球が存在するのか。人類は、地球環境の悪化によって滅ぶのか、核兵器によって滅ぶのか、はたまた少子化によって滅ぶのか。

 秋の夜長が、けりの付かないことばかりを考えてふけていくのもどうしたものか。
 かといって、ロボットにけりを付けてもらうほどお人好しでもない。

男子活躍社会

今、日本は、国を挙げて女性や高齢者の活躍を応援しているが、
「何か忘れちゃいませんか?」と言いたくなる。

今から32年前、
サラリーマンから独立して、初めて職員を採用しようと面接した女性の職業意識の高さに、「これからは女性だ。」と、直感した。
たぶん、「どんな仕事のやり方を望まれますか?」と相手に聞かれ、「云われたことをやるのは当たり前で、その先を考えた仕事をしてほしい。」と自分が答えた気がする。相手は、まだ二十歳の娘さんだった。負けず嫌いで、厳しい仕事によく耐えて事務所の基礎を作ってくれた。

振り返って、今どきの男子をみると、徐々に職業意識が下がっている気がしてならない。
ある雑誌の対談で「理想の男性は?」と聞かれた若い女性が「昭和の香りのするひと」と応えていた。そうか、昭和のカオリなのかと思った。当時の男子も親の世代から見れば決して褒められたわけではなく、風当たりが強かったが、こんな自分でさえ、世の中は男がしっかりしなければダメだという意識は健在だった。
近年、男子の活躍が議論されることは少ないが、最も障害がなく活躍できるのは男子である。様々な場面で苦労をされている女性の社会進出に比較すると、男性は本当に恵まれている。

青年の身の内に宿る自らの能力に気付き、自らの職業意識に目覚めてほしい。決して安全なレールの上を目指すのではなく、自らの力で道を切り開く勇気をもってほしい。特に優秀といわれる男子は、安全な場所に身を置くことなく、競争の社会で勝ち抜く歓びを目指して欲しい。活躍する人の下に多くの仲間が集い、やがて新しい組織ができることを夢見てほしい。
世の中の中心になって、恵まれない人たちに救いの手を差し伸べることができるのも、まぎれもなく君たちなのだ。

「頼むよ、人生は一回きりだから。」昭和も、年寄りも去っていくのみだ。

花のニッパチ

私の誕生日は8月1日である。

毎年の誕生日がそれほど嬉しくない年齢になってどれくらいたつのだろうか。
還暦も過ぎ、誕生プレゼントに胸をときめかすことも、ケーキを囲む人の顔ぶれに胸をときめかすことも期待できない。

ところが、今年の誕生日は、例年になくわくわくして、たくさんの人に会いたいのである。
「誕生日おめでとう」と言われると即座に切りだすのはニッパチの話題である。
昭和28年8月1日生まれで、今年の誕生日は平成28年8月1日である。今年は、平成のニッパチである。

花のニッパチを知る者は少なくなった。北の湖は、我らの出世頭であった。
我々がまだ世間を知らない学生の分際の頃、彼は21歳で横綱になった。勝った時のふてぶてしさが話題になるほど強かった。
相撲界では、先代若乃花、野球では梨田や落合がいた。
一気にその頃の話題になって、華々しい気分になれるのが嬉しいのだ。

生れてちょうど63年が経った。
63年間続いた昭和は、日本人に大きな挫折をもたらしたが、同時に大きな勇気と自信ももたらした。
平成は28年でもうすぐ終わりを迎えようとしている。
果敢にチャレンジする日本人像が影を潜めて久しい、平成のニッパチ生まれが、「花のニッパチ」と呼ばれる日が再来すれば、これに勝る喜びはない。

街路樹

季節の移ろいは早いもので、この間までまだ薄く柔らかい緑の葉をかろうじて付けていた木々が、もう深緑に変化した大きな葉を付けている。
この時期、車を運転していると毎年のように街路樹のことを考えさせられてしまう。

都市の美観の向上や直射日光をさえぎり和らぎを求める目的で植えられている街路樹は、都会の道路に溶け込んで美しい。植えられて間もない時期の街路樹は頼りなさも手伝って、誰からも慕われ、愛情をそそがれるものだ。誰もが我が子に接するように、少し頼りないこの街路樹に丈夫に育って欲しいと願うものだ。
だが、大きく成長してたくさんの濃い緑の葉を広げるようになると、「街路樹は信号機や道路標識の邪魔になる」「電線にひっかかって危ない」となる。自分もそうかもしれないが、人は可愛いものには優しいが、強いものには厳しい目を向ける。

可愛いさが無くなったものには、人はまったく残酷な仕打ちを平気で行うことがよくある。
伸びすぎた街路樹は枝を容赦なく切り落とされてしまう。充分な根を張る土地も与えずに、そうしなければ、強風に倒されるともっともらしく云う。

「子供は三歳までに一生分の親孝行をする」と言うが、小さければ、可愛ければ大事にし、可愛くなくなったらほったらかし、厳しい仕打ちをするという行動は、近年の子供やペットに対する虐待行動も同様かも知れない。

相手が木なので、街路樹に対しては虐待も気に掛からないのかもしれないが、誰かこの街路樹をどこかに移して、小さな木と植え替えてくれないだろうかとも思う。

しかし、人間様の身勝手で、こんな騒々しい場所に植えられ、受動喫煙じゃないが排ガスをたくさん吸わされて、それでも我慢してけなげに育ったかと思えば、今度は邪魔だからと手足を切り落とされるのでは、どの木が替わってもたまったものでない。
更に歳をとった樹は、身体じゅうボロボロになって危険だからといって切り倒される。