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手を合わせる

 神棚に手を合わせるのは、我が家の朝の習慣である。
 女房の母が神道である以外誰も宗教に関心はないものの、毎日揃って手を合わせている。

 二礼二拍手をしたのち、手を合わせ一礼するまでのわずかの時間に家族が何を考えたり祈ったりしているのかには興味をそそられる。
 誰が何を考えているかを推し量ることはできないし、何かを唱えているかどうかも分からない。毎日同じことを考えたりお願いしたりしているのか、きちんと言葉にしているのかも改めて聞いてみる気はないが、

 自分にとって、手を合わせる行為はむしろ自分の心に語りかける時間になっている。

 少し背筋を伸ばし、しばし目を閉じて「他人のせいにしていないか」とか「酒を飲みすぎませんように」とか「他人に優しく接しますように」とかである。欲を出せばきりがないので、お願いはあまり考えていないが、「いい天気になりますように」とか「問題が発生しませんように」など希望的なお願いはすることがある。

 一緒に手を合わせている家族が、お金のことや個人的なことばかりお願いしているとしたら寂しい。

硬直化

 今年の冬は例年になく厳しい。
 年寄りの仲間入りが目前に迫ってくると、若いころは他人事だと思っていたことがあなどれなくなってくる。

 この数年、冬になると恋しくなるのは、温泉、サウナ、マッサージである。マッサージの回数は、なぜか気温に左右されている気がしている。つい先日もゴルフ練習をしたのがたたって、マッサージに行った。揉み始めは「特につらいところはありません。」などと、当たりさわりのないことを言っていたが、少し身体がほぐれてくると、途端に「あっ」とか「うっ」とか思わず声が出てしまった。「お客さん張っていますね。最初は、硬すぎてツボに届きませんでした。」と言われた。
 そういわれれば、冬はいつもこんな感じだなと想いを巡らす。いつの頃からだろうか、こんなに身体が固くなってしまったのは。年を取るとはそうゆうことかと納得する。

 いやいや、硬いのは身体だけではない。
 寒さのせいとは言わないが、いつの頃からか頭も固くなってしまって、簡単に切り替えができなくなってしまった。正月番組の話題に乗り切れず笑いもワンテンポ遅れてしまうし、人の名前を思い出すのも時間がかかる。頭脳の硬直化であるが、頭も身体の一部と考えれば、それはそれで整合性がとれている。とはいえ、硬直化の原因が冬の寒さにあるかどうかは別問題だ。

 しかし、もっと厄介なものは心の硬直化である。
 年を取れば欲が少なくなって、心はいつも平穏、にこにこしながら人生を送り、何事に対しても寛容になれると刷り込まれていたのは何だったのだろう。
 最近のご高齢の方々を観察するとどうもそんなに甘いものではないらしい。自説を曲げない、他人の言葉に耳を貸さない、果ては他人を頭ごなしに威嚇する。自分以外の価値観を認めない、自分の存在を認めさせるべく行動する傾向が強い。この場合、注目されていないことが人生の冬の季節に当たるのだろうか。

 硬直化の対処法は、可動域の拡大が第一である。
 身体でいえばストレッチだと思うが、頭脳でいえば好奇心に当たるのか衝撃に当たるのかちょっと迷うところではある。さらに心の可動域に関していえば、感動や感激に当たるのか他人の思いやりに当たるのかこれも大いに迷わされる。

寿命

 還暦を過ぎていまさら人の尊厳とか命の重さを説く気にもならないが、昨今のとどまるところを知らない平均寿命の伸長には驚かされる。
 長寿社会はありがたいが、急な社会の変化は老々介護、医療費、年金破たんとひずみも多い。
年金受給者がこのまま増え続ければ、支え続ける世代は大変なことになると警鐘を鳴らす。しかし一方では、あまりにも急な変化が押し寄せて混乱しているだけなので、いずれ片付くという意見もある。
この件に関しての私の見方は悲観的であり、ことの本質はそう甘いものではないと考えたほうが良いと思っている。
 というのも、長寿社会は偶然そうなったわけでなく、大きなシステムが働いてそうなったのであり、同じ条件が続く限り、平均寿命は同じペースかそれ以上のペースで伸び続けると思われるのだ。
 その第一の要因は、国民皆保険制度である。すべての国民が保険に加入することで、少ない自己負担で医療給付が受けられることとなった。
 要因の第二は、医療技術の進歩である。IP細胞の例を引き合いに出すまでもなく、近年の科学的データに基づいた医療は、経験則を味方につけることで一気に進歩した。ガンは早期発見により、ほとんどの人が一命をとりとめている。脳や心臓疾患も昔なら当然亡くなっていたような患者が元気に復帰している。
 医療技術はその回数を重ねることで大きく向上するから、保健医療制度の下で、多くの患者に治療した実績がものを言う。これが、第三の歯車である。
 一昔前、戦後生まれの人間は飽食を続けているので、戦前の人間ほど長生きはできないといわれていたが、現実は何のストレスも与えないままさらに長寿となるであろう。要は、医療技術の進歩はそんなわずかな差などもろともせずに乗り越えられということである。長寿の血統さえも今後はどの程度の影響力を残せるかも疑問である。
 寿命が天から与えられたという意味で用いられる「天寿を全うする」も、医療技術によって生き永らえるなら妙な違和感を覚え、色あせたものに見えてくる。
 周りに名医を見出した人間が長生きできるという方程式が成り立ち、不思議な縁が自分の寿命を決める世の中になって来る気がする。こうして患者を救った名医は、さらに経験を積み、よりたくさんの長生き老人をつくっていく。

紅葉の頃

 今年も紅葉前線が南下してくる時期となった。
 一枚一枚が葉脈まで透けて見えるほど真っ赤になったモミジの葉と、木漏れ日に照らされた白樺の黄色の葉の小径を通り抜けるとき、毎年のことなのに新たな感動を覚える。
 こんな紅葉の美しさを身体で感じることができる人は本当に幸せ者だ。

 だが、そんな紅葉も永くは続かない。
 落葉の時期、木枯らしに吹かれて舞い落ちる木の葉は都会ではどちらかと言えば厄介者だ。強くて寒い風が落ち葉を舞い上げ、風の当たらない場所に吹き溜める。せっせと竹ボウキで掃き集める朝が何日か続く。「たき火だ、たき火だ、落葉焚き」ともいかないから誰かが作業をさせられる。
 
 一方、自然界では作業をする者はいない。植物は夏の間、緑の葉の工場で太陽の光をエネルギーにして、水と二酸化炭素から光合成によって養分を作る。緑色だった葉が紅葉して落ちれば、その養分も森の栄養になる。舞い落ちる木の葉は強い風に吹かれて森の窪地に溜まる。窪地には、雨やみぞれや雪も溜まり、葉を朽ちさせ微生物活動を助ける。その微生物をエサに様々な生物が育ち、それをさらに上の動物が捕食する。森の食物連鎖だ。完成された循環社会。何百年も生きる木々は、もうすべてをお見通しのように、自ら葉を落として水分摂取を減らすとともに、周囲に養分を与え、春に備えるのである。木々は、こうして一歩も動くことなく生まれついたこの場所でずっと生きてきたのである。

 人間といえば、科学を武器に自然を制覇することに躍起になって、昼夜の区別も夏冬の区別もなく、エネルギーを消費して行動範囲を拡大してきた。しかし、ここにきて地球温暖化や、人工知能の恐怖におびえている。ある意味では随分非効率なことを続けているのかもしれない。地球の四季と連動することで得られる効率化にもう少し目を向けていれば何かが変わったかもしれない。熊が冬眠するように、太古の時代は人の身体も季節の変わり目で何らかの変化をしていたのであろうか。

 よく分からないが、それでも今日よりも寒い明日がやってくる。

ケリをつける

 「けり」 は完了の助動詞である。
 古文に出てくる~しけり、~になりにけり、など。
 最後に「けり」をつけることから、これにて決着がつき、ようやく終わったとなる。

 ところが、最近はこの「けり」がつかないことが多くなった。
 自分の性格によるところも多いかもしれないが、世の中が複雑になっていることも大きな要因だ。
 自分は覚えるよりも考えることが多い人間で、人の話を聞いていても、話の中の何か一言に反応して自分の世界に入ってしまい、そこからまた別のことを連想したり、空想したりしてしまうのだ。
 しばらく考えて、思いついたように目の前の話を聞き、それでも、何かの拍子に前に考えていたことを思い出せば、その続きを考えてしまうから、頭の中はいつも結論を出せないことや片付かないことでいっぱいになる。

 最近、「今後10年間で無くなる職業」という記事を読んだ。
 頭の中には、急に未解決の問題が増えた。タクシードライバー、農業者、レジ係、経理の事務員、銀行の融資審査係、税務や法務の資格者もその中に入っていた。
 確かに、ルーチンワークや定型的な判断と動作がほとんどといった職業は、この先ロボットにとって代わられる運命かも知れない。

 たとえば、農業者はどうなるのだろう?
 無人のトラクターが肥料をまき、畑を耕し、種を植え、草取りをし、収穫をする。ビッグデータ-から様々な条件を取り出し、計算に基づいて忠実に作業をしていくロボットのほうが技術は上になるかも知れない。
 農業労働者は転職するしか道がないのか。愛情をもって育てた作物もロボットが育てた作物も味は一緒なのか。愛情があれば美味しいなんて元々錯覚なのか。なら逆に、ロボットばかりの地球が存在するのか。人類は、地球環境の悪化によって滅ぶのか、核兵器によって滅ぶのか、はたまた少子化によって滅ぶのか。

 秋の夜長が、けりの付かないことばかりを考えてふけていくのもどうしたものか。
 かといって、ロボットにけりを付けてもらうほどお人好しでもない。