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国家という器

徒然
12 /18 2012
 国政選挙が終わって再び勢力図が大きく塗り替えられました。この国は一体どこに向かっているのだろうという不安がよぎるほど、今の日本は迷走しています。
国という器は人が作り出したいわば人工の概念で、その点では会社の仕組みと非常によく似ています。国民が株主で、国会議員は会社の役員であり、公務員は会社の従業員です。役員は株主総会で選任されますが、国においては有権者の投じる1票で選任されます。
会社組織では、財務体質を強くし、商品価値を高め、社会に貢献し、従業員の生活を良くすることが目的であることは明白なのに、国家となると急に見えなくなってしまいます。「国家という器」にあっても、会社同様その組織を生きものごとく捉え、組織を大切に育てることがみんなの幸せにつながることに気付かなければなりません。
 会社運営では、内部統制とかコンプライアンスが叫ばれ、世界中が「企業価値」を高めることに全力で取り組んでいますが、選挙公約や国政運営ではこの役割がはっきりせず、利益以上の株主配当を求めることや、株主や役員が会社と利益相反取引をするという、経済界ではおおよそ考えられないことが普通に人々の前にさらされています。
 国民も議員も公務員も目指すべきは「国家という器」を大切にする気持ちであって、そうした視点で、「自分は何をすべきか」ということを考えねばなりません。株主と役員と従業員がそれぞれ自己の利益を主張したのでは会社はすぐに崩壊します。国家を育てることも同様で、国民一人ひとりが初心にかえって少し頑張り、我慢し、注意しあえる関係を構築することが大事です。
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考える力と考える習慣

徒然
12 /06 2012
最近、「考える力」は個人差がとても大きいと感じるようになった。「誰だってみんな考えてますよ」と軽口をたたかれたり、「人間は考える葦である」なんて格言もあったりで、だれもが「考える」ことまでは否定しないが、しかしそのレベルが大きく違っていることに気付く人も少ない。
 著名な経済人や学者が考えることの大切さを説くが、その物差しを示したことは記憶にない。考えることの得意な人間は、自分も考えたのだから誰でも自分と同様、さまざまな点に思いを巡らせることができ、自分と同様のもしくはそれ以上の発想がわいてくる可能性があると信じて「考える」ことの重要性を説くのだと思う。
 しかし、歳と共に観察眼が発達してきた近年、よく観察してみると、考えるか考えないかは一種の習慣のような気がする。考えない癖は1年や2年では直らないと感じる人や、一つ考えられても次に繋がらずまた元に戻ってしまったりといった人に接したりすると、この個人差は小さいころからの習慣ではないかと思えてならない。
 考える習慣がどの程度身についているのかを見分ける力は少しついてきたが、どんな人にも「考える習慣」を身に着けさせるのにはまだまだ時間が必要だ。

fukagaipro

P・R・O行政書士法人の
代表社員・深貝亨のブログ

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