fc2ブログ

エッセー「半九郎が行く」 第3回

半九郎が行く
04 /24 2023
久保半九郎、1970年8月8日岐阜生まれ、札幌育ち。
武士道と義理人情にあふれた企業経営者。

趣 味:読書、料理、旅行
信 条:良い土をつくれば、自ずと良い人材が育つ
行動指針:動機善なりや、私心なかりしか? 神の見えざる手が秩序をつくる



多重国籍国家

2093年3月である。
半九郎は、今朝の映像の中に「東日本大震災」というワードを見つけた。

80年以上も前の出来事だというが、今、起きても少しもおかしくないと思った。
まさに「災害は忘れた頃にやって来る。」というもので、そろそろ大地震なのかもしれない。

こんなにAIが発達しても、未だに地震の予測は困難を極めている。
地震予測で稼いでいる国もあるが、精度は良くない。

日本の人口はその当時、日本人だけで1億3千万人近くもいたというが、現在の総人口は1億1000万人、それも元来の日本人の数は5000万人といわれている。

からくりとしては、人口の約半数が移民と呼ばれる人々だった。
つまりは日本の永住権を持っている外国人と日本に帰化して日本国籍を取得した人が半数いるということである。

2072年、当時の政府は人口減少に歯止めが掛からない現実と、国の財政赤字に危機感を抱き、永住権、帰化の要件緩和と二重国籍を認める憲法の改正を実施した。

出生率の低下と海外流出によって日本の人口はまさしく危機的状況にあった。
一方、所得格差も拡大の一途をたどり、ストライキとデモが常態化していた。
重税感から国を脱出する企業は後を絶たず、就職難が若者の学習意欲・勤労意欲を減退させていた。

政府は海外からの投資資金を呼び込み財政を補填したいと考え、その手段として永住権を与えた。
当時は、金で日本人の心を売るのかと大きな批判を呼んだものの、魅力ある日本の生活を夢見て、多くの国から豊かな人たちが押し寄せて、政策としては大成功だった。

帰化の要件を緩和したことも大きな成功であった。
それまで日本の国籍を取得すれば、原則元の国籍を放棄させるのが条件であったが、これも緩和した効果は大きく、政情不安な国々から逃れるがごとく帰化申請が殺到した。
帰化の条件にある優秀さについてはハードルを下げなかったのが幸いして、文化水準を下げずに済んだことで日本の魅力が更に広がった。
日本の人口はあっという間に倍増し、一見大成功に思えた。

しかし、現実は一人勝ちできるほど甘いものではなかった。
諸外国も二重国籍や多重国籍を認めだしたので、今度は多くの日本人も二重、多重の国籍を取得し始めたらしい。

法律改正から20年を経て、ようやく人口の移動が収まってきた。
人々の生活は、海外との関係で大きく振り回された。
何といっても子供の将来が決定づけられることのほうが、自分の将来より重要であることが証明されたのはいうまでもない。

そして、国を選択する何よりも大きな要素は、兵役と軍隊だ。
誰もが戦争を望んではいないし、招集されるような国にしがみついているのはうんざりだった。
この世界中の動きは、兵役の廃止と軍隊の縮小に著しく貢献して、世界を平和に導くことに拍車をかけた。

もう一つの重要な選択肢は税制であった。
税率を下げて小さな政府を運営することが余儀なくされたことから、各国は、減税合戦に突入し、その結果、世界の人々の収入と資産の格差を大きく広げる結果となった。

インターネット取引が拡大したころから国境の壁が低くなると予測はできたし、多国籍企業や世界中の企業が電子決済を利用できる環境になって一気に様変わりし始めた。

だが、人口が減ることは悪なのかといえば、そうとは言い切れない。
人が地球の恩恵で生きているとするなら、人口はむしろ少ない方にメリットがある。
近年、様々な分野で少数精鋭主義がもはやされているのは、そういう風潮が背景にある。
少人数でも高付加価値を生み出せる環境が整えば、安心できる国家となるのだ。

スポンサーサイト



エッセー「半九郎が行く」 第2回

半九郎が行く
10 /20 2022
久保半九郎、1970年8月8日岐阜生まれ、札幌育ち。
武士道と義理人情にあふれた企業経営者。

趣 味:読書、料理、旅行
信 条:良い土をつくれば、自ずと良い人材が育つ
行動指針:動機善なりや、私心なかりしか? 神の見えざる手が秩序をつくる



北国の短い夏も終わり、山々が錦色に染まる時期になってきた。
運動不足解消に突き動かされ、たまには山に登りたいという衝動が湧いてきた。

装備なしで登れる山はないものかと、ネットで少し探してみる。
街に近過ぎれば混雑すると考え、近郊で初心者でも踏破できる山を探す。

ありました、ありました。

「小樽市塩谷の丸山は子供でも登れる」との投稿を見つけ、天気の良いのを確認し、早速出掛けると決めた。

少し分かりにくい登山口の駐車場に何とか到着すると、入りきらないほどの車と、颯爽とした登山スタイルの面々が大勢で歓談している姿。

スポーツには程遠い格好の私は、その脇を目立たぬように何食わぬ顔ですり抜け、一人深呼吸をして期待を胸に上り始めた。

私は、山育ちだが山登りではない。山育ちは木を切るか、山の幸を採るかであり、目的なしに山に登るほどお人好しでもないが、今日は登山である。

とはいうものの、自分は自由人だとでもいいたげに、タオルも持たず、登山靴でもなく、帽子も被らず、手袋もせずに普段着のままのいでたちである。

ところが、少し進んだだけで、自由人の期待も深呼吸も打ち砕かれた。

なんといっても、勾配が急なのだ。
ネット投稿では初心者向けの山と書かれていたが、不安になってきた。

でも、まぁ何とかなるだろうと軽い気持ちも健在であった。

ところが途中から、岩がゴツゴツ現れてきた。
急な傾斜に加え足元も悪くなり、ころぶ危険性が出てきた。

とはいえ、山育ちとしては後続者に抜かれるのも不本意だ。
下のほうから聞こえる熊よけ鈴の音にせき立てられ、焦って這い上がる。

車の中にスマホを忘れたので、正確な時間ではないが1時間も経っただろうか。
疲れ果てて、上を眺めれば、更に険しい石ころがゴロゴロと見えるではないか。

急に疲れが出て、ちょうど脇にあった少し大きな石に座り込んでしまった。

しばし休憩と決めたものの、心臓が依然ドキドキと音を立てている。
もう、諦めるには十分な条件だ。

上から降りてくる人に「あとどれくらいありますか?」と聞けば、
「3分の1はありますよ。」との返答。さらに弱気になる。

次に降りてきた人にも同じ質問をしたら、弱って見えたのか、
「ですが、ずっと険しい道が続くわけではありませんよ、上はなだらかなところも多いですよ。ゆっくり登れば大丈夫ですよ。」と不憫に思ったのか、同情とも取れるお言葉を頂いた。

しかし、誠実そうなその人の言葉に心が反応した。
新たな希望が湧いてきた。

気を奮い立たせ、目さきのゴロゴロ岩に挑む。
100メートル位の急勾配をやっと乗り越えたものの、たったこれだけで休憩前よりも足が重くなり、もう限界かと思った。

しかしこの時、さっきの「ゆっくり上れば大丈夫ですよ。」を思い出した。

そうかそれならば、と歩幅をそれまでの半分にした。
速度は遅くなったものの、体がすごく楽だ。

これはいけるなと実感したところで、言われたようになだらかな道も出てきて、ゆっくり歩けばほんとに疲れないと自信がついた。

最後に険しい道があって、ようやく頂上に到着。
海抜629メートル、小学生には少しハードルの高い山だ。

しかしながら、この低い山でも360度見渡すことができ、充実したひとときを体感できた。
逃げずに挑戦をして良かったと実感した瞬間である。

体力の衰えをなんとか工夫をしつつ、厳しい場面でも逃げずに乗り切りたい。
「牛歩でも乗り越えていく、また楽しからずや。」とは、都合4時間の成果であった。

エッセー「半九郎が行く」 第1回

半九郎が行く
09 /16 2022
久保半九郎、1970年8月8日岐阜生まれ、札幌育ち。
武士道と義理人情にあふれた企業経営者。

趣 味:読書、料理、旅行
信 条:良い土をつくれば、自ずと良い人材が育つ
行動指針:動機善なりや、私心なかりしか? 神の見えざる手が秩序をつくる



JALファーストクラスにて
2022.09.15

メニューを持参し、
「お食事のご用意がございますが、飲み物を何かお持ちしましょうか?」というCAさんの声をさえぎって、
「食事は要らないので、お水と後からホットコーヒーをお願いします。」
「フルーツだけでも如何ですか?」
「いいえ、けっこうです。」
「それとひざ掛けをお願いします。」
「分かりました。」

間もなく、お水が届きました。
随分早いタイミングだと感じたものの、ペットボトル入りなのでまあ今でもいいかと受け取りました。

ですが、しばらく待っても膝掛けが出てまいりません。離陸が迫っていたこともあって、少々意地悪かと思いましたが、他のCAさんにお願いして持ってきて頂きました。
先のCAさんはそのあと脇を通り過ぎましたが、全く気付かない様子で、何の反応もありませんでした。

半九郎は物忘れをしないための工夫について考えました。
物忘れを防ぐために、用件を分類する手法を思い出しました。

この場合だと飲食に関する用件と、ひざ掛けに関する用件に分類します。
飲食に関することは2点、ひざ掛けは1点です。人の頭は、2点のよりも1点のほうが忘れやすいので、忘れやすい1点の用事から済ませるようにします。
こうすれば、このCAさんもひざ掛けを忘れることはなかったのにと思いました。

ところが、飛行機が動き出すとのアナウンスが入ったときに、脇を通りかかったくだんのCAさんが、「すみませんでした、本来は私がご用意させていただくはずでした。」とひざ掛けを忘れたことを丁寧に詫びて来られました。
半九郎は、その勢いに少し驚きましたが、同時に胸が痛みました。
姑息な感情から他のCAさんにお願いしたことを恥じました。
 
人にとって大切なことは、誠実さであったと痛感しました。
多少の忘れ物で、相手を見下した感情をもったこともその予防策を考えていたことも、そんなことは、誠実さから比べると微々たるものだという感情が湧き出てきました。

「いえ、どういたしまして。」と腹の底から絞り出して挨拶を返すのがやっとでした。

深貝 亨

P・R・O行政書士法人 代表のブログ