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肉の味

 日本の料理に肉が登場したのは、野菜の煮つけやカレーの具が先で、肉だけを食べられるようになったのは、そう昔のことでないと義兄はいう。言われてみれば、野菜の中に肉を見つけて喜んでいたのもそう昔のことではない気がする。
肉そのものを食べたのはジンギスカンだったけど、大人も子供もその味に大満足だった。
 先般、若者と居酒屋で食事をした。お刺身とビールを注文して、仕事の話を始めたが、全然乗ってこない。追加の注文を焼き魚にするか煮魚にするか聞いたが、もじもじして要領を得ない。問い詰めたら、和牛ステーキがメニューにあるけど頼めるのかと聞いてきた。「ここの居酒屋は味のレベルが高いから大丈夫」と注文してあげて、そのステーキを食べたらとたんに表情が一変した。「まさかこんなに美味しいとは思わなかったです。」と大喜びをして店主にお礼を言っている。
それを見た瞬間、「こいつは肉の味を知っているな」と直感した。
 我々が嬉々として食べていたジンギスカンは、遠くオーストラリアやニュージーランドから船便で輸入されたもので、ロール状に固められ冷凍されていた。それを薄くスライスして独特の鍋の上で野菜と一緒に焼く。美味しさの秘訣は、羊肉の油とたれの味だ。その後、焼き肉屋さん隆盛時代があって、今も続いているが、これもたれの味からスタートし、最近ようやく、チルド肉、炭火焼きまで進化した。
 しかし、肉の本当の美味しさは、焼いた生肉を嚙んだ途端に口の中に広がる肉汁のうま味だ。このうま味を得るには、肉に含まれるうま味成分と適度の肉厚が必要になる。この味を舌が一度覚えたらもう忘れない。
 近年、海外で和牛が人気と聞く。日本の牛肉の歴史はわずか50年くらいのもので、短期間に世界のトップに登り詰めた格好だ。日本人の舌はなんと優秀なことか。うま味に対するあくなき探究心が、和食が世界でブームを巻き起こしている最大の要因だ。

啓蟄


 3月5日は、暦の上での啓蟄(けいちつ)である。土の中で眠っていた虫たちが、暖かさにつられ、蠢(うごめ)き、外に出る日だという。人類の素晴らしい観察力というか、発想の豊かさに驚かされる。
 我々も生き物なので、春になれば硬かった身体に鞭打って動き出す本能を持ってはいるが、歳とともにそのエネルギーは貧弱になり、意欲も薄れてくる。どの時点を起点として動き出すのか、それとも動き出さないのか?動いているのかいないのか?身体のメリハリが効かなくなるのは身体的なものなのか精神的なものなのかも良く判らない。
 植物の多くは、冬に葉を落として冬眠に入り、春になると新しい芽を吹いて生まれ変わって来る。人間も、そのように一年に一度、生まれ変わってくれれば楽しい。新しい芽とは、さしずめ、弾力のある肌、軟らかい筋肉、黒い髪、メガネのいらない眼、新しい歯、毎年こんなにたくさんのプレゼントをもらえるなら、どんなに苦しい寒さもしのげるというものだろう。
 ならば、そんなプレゼントもないのに春になれば心が浮き浮きするのはどうしてだろうか?
春は、スプリングというから世界中が浮き浮きするのだろうか?それとも、特に四季がはっきりしている日本だからそう感じるのであろうか。
啓蟄は、心も蠢くということなのだろう。新しい肉体はもらえなくとも、せめて一年に一度くらい新しい心を持ちたいものだ。新入社員が入り、人事異動が発表になるこの時期、気持ちを新たにして、地上に這い出してみてはいかがでしょう。

手を合わせる

 神棚に手を合わせるのは、我が家の朝の習慣である。
 女房の母が神道である以外誰も宗教に関心はないものの、毎日揃って手を合わせている。

 二礼二拍手をしたのち、手を合わせ一礼するまでのわずかの時間に家族が何を考えたり祈ったりしているのかには興味をそそられる。
 誰が何を考えているかを推し量ることはできないし、何かを唱えているかどうかも分からない。毎日同じことを考えたりお願いしたりしているのか、きちんと言葉にしているのかも改めて聞いてみる気はないが、

 自分にとって、手を合わせる行為はむしろ自分の心に語りかける時間になっている。

 少し背筋を伸ばし、しばし目を閉じて「他人のせいにしていないか」とか「酒を飲みすぎませんように」とか「他人に優しく接しますように」とかである。欲を出せばきりがないので、お願いはあまり考えていないが、「いい天気になりますように」とか「問題が発生しませんように」など希望的なお願いはすることがある。

 一緒に手を合わせている家族が、お金のことや個人的なことばかりお願いしているとしたら寂しい。

硬直化

 今年の冬は例年になく厳しい。
 年寄りの仲間入りが目前に迫ってくると、若いころは他人事だと思っていたことがあなどれなくなってくる。

 この数年、冬になると恋しくなるのは、温泉、サウナ、マッサージである。マッサージの回数は、なぜか気温に左右されている気がしている。つい先日もゴルフ練習をしたのがたたって、マッサージに行った。揉み始めは「特につらいところはありません。」などと、当たりさわりのないことを言っていたが、少し身体がほぐれてくると、途端に「あっ」とか「うっ」とか思わず声が出てしまった。「お客さん張っていますね。最初は、硬すぎてツボに届きませんでした。」と言われた。
 そういわれれば、冬はいつもこんな感じだなと想いを巡らす。いつの頃からだろうか、こんなに身体が固くなってしまったのは。年を取るとはそうゆうことかと納得する。

 いやいや、硬いのは身体だけではない。
 寒さのせいとは言わないが、いつの頃からか頭も固くなってしまって、簡単に切り替えができなくなってしまった。正月番組の話題に乗り切れず笑いもワンテンポ遅れてしまうし、人の名前を思い出すのも時間がかかる。頭脳の硬直化であるが、頭も身体の一部と考えれば、それはそれで整合性がとれている。とはいえ、硬直化の原因が冬の寒さにあるかどうかは別問題だ。

 しかし、もっと厄介なものは心の硬直化である。
 年を取れば欲が少なくなって、心はいつも平穏、にこにこしながら人生を送り、何事に対しても寛容になれると刷り込まれていたのは何だったのだろう。
 最近のご高齢の方々を観察するとどうもそんなに甘いものではないらしい。自説を曲げない、他人の言葉に耳を貸さない、果ては他人を頭ごなしに威嚇する。自分以外の価値観を認めない、自分の存在を認めさせるべく行動する傾向が強い。この場合、注目されていないことが人生の冬の季節に当たるのだろうか。

 硬直化の対処法は、可動域の拡大が第一である。
 身体でいえばストレッチだと思うが、頭脳でいえば好奇心に当たるのか衝撃に当たるのかちょっと迷うところではある。さらに心の可動域に関していえば、感動や感激に当たるのか他人の思いやりに当たるのかこれも大いに迷わされる。

寿命

 還暦を過ぎていまさら人の尊厳とか命の重さを説く気にもならないが、昨今のとどまるところを知らない平均寿命の伸長には驚かされる。
 長寿社会はありがたいが、急な社会の変化は老々介護、医療費、年金破たんとひずみも多い。
年金受給者がこのまま増え続ければ、支え続ける世代は大変なことになると警鐘を鳴らす。しかし一方では、あまりにも急な変化が押し寄せて混乱しているだけなので、いずれ片付くという意見もある。
この件に関しての私の見方は悲観的であり、ことの本質はそう甘いものではないと考えたほうが良いと思っている。
 というのも、長寿社会は偶然そうなったわけでなく、大きなシステムが働いてそうなったのであり、同じ条件が続く限り、平均寿命は同じペースかそれ以上のペースで伸び続けると思われるのだ。
 その第一の要因は、国民皆保険制度である。すべての国民が保険に加入することで、少ない自己負担で医療給付が受けられることとなった。
 要因の第二は、医療技術の進歩である。IP細胞の例を引き合いに出すまでもなく、近年の科学的データに基づいた医療は、経験則を味方につけることで一気に進歩した。ガンは早期発見により、ほとんどの人が一命をとりとめている。脳や心臓疾患も昔なら当然亡くなっていたような患者が元気に復帰している。
 医療技術はその回数を重ねることで大きく向上するから、保健医療制度の下で、多くの患者に治療した実績がものを言う。これが、第三の歯車である。
 一昔前、戦後生まれの人間は飽食を続けているので、戦前の人間ほど長生きはできないといわれていたが、現実は何のストレスも与えないままさらに長寿となるであろう。要は、医療技術の進歩はそんなわずかな差などもろともせずに乗り越えられということである。長寿の血統さえも今後はどの程度の影響力を残せるかも疑問である。
 寿命が天から与えられたという意味で用いられる「天寿を全うする」も、医療技術によって生き永らえるなら妙な違和感を覚え、色あせたものに見えてくる。
 周りに名医を見出した人間が長生きできるという方程式が成り立ち、不思議な縁が自分の寿命を決める世の中になって来る気がする。こうして患者を救った名医は、さらに経験を積み、よりたくさんの長生き老人をつくっていく。