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利発な子

 最近、4~5歳くらいの子供の心の動きがよく見えるようになってきた。自我の目覚めとか最初の反抗期とは、もっと低年齢をさすのだろうが、物心がついてくる頃の子供らが何を考えているのだろうと観察していると、個人差の大きさに気付かせられる。

 観察していて分かることは、何を基準に行動しているかだ。親の目を気にして行動している子は意外と多い。親に見つかる、しかられる、甘えられるなど親の動きに合わせてどう行動するかを決めているのだ。親が許してくれるなら甘えん坊になってしまう。さらには親の目を盗むことも、どちらの親に頼めば要求が通るかも計算している。褒められれば大喜び、無視されればふくれる、子供らしいといえばそれまでだが、一方では、自分でものを考え自分の頭で行動している子供がいる。
 自分で行動する子は、遊びも習い事も、テレビの見方もゲームを攻略しているときも、親や周囲に気を遣うことは無い。親からも特に注意されることもない。

 こういう利発な子供の目を見ていると、どこか遠くを見つめていることや、動きがゆっくりしていることが多い。自分は利発な子ではなかったが、どちらかといえば遠くの空を見て育ったように思う。

 ところで、このような両者の違いは、一体いつまで続くのだろう。自ら考える習慣のある利発な子はそのまま大人になれば良いが、そうでない子はどこかの時点で幼児性を克服できなければならない。
 そう考えて周りを見渡せば悲観的にならざるを得ない。きっと大学を出ても同じなのではないか。いや、都合の悪いことを報告しないことや、やたらと結論だけをメモしたがる社会人も相当いるから、社会人になっても同じように幼児的な心理が働いているのではないかと疑いたくなる。
 テストの問題と違って、世の中で起きることは正解が決まっているわけではない。なので、自ら問題意識をもって考えることのできる人間にしか課題を解決することは出来ない。

 どこかのタイミングで、自分の頭で問題を発見し、課題を克服して自信につなげなければ、親の目を気にして行動している4~5歳くらいの子供と一緒だ。

手応え

 松岡修造の日めくりカレンダー、10日は「心のお風呂に情熱の薪をくべろ」とあった。熱意をもって若者に話をしても伝わらないことが多かった最近、いいな~松岡修造は。人間、やはり熱血漢でなくちゃつまらない。

 一生懸命話をしても相手方の反応が鈍いと、何が伝わっていないのだろうと色んな方面から言葉を浴びせる。しかし、そうすればするほど、言葉が空しく空を切ってしまい疲労感だけが残る。「こいつ、何も考えてないな。」と決めつけてしまうのは簡単だが、それでは、見込み違いを決定づけてしまうので良いことではない。
 力めば段々と深みにはまる場面に出くわすと、カラオケやゴルフのスコアを連想してしまう。どちらも力が入れば入るほど手応えから遠ざかっていって深みにはまる。ゆっくりと落ち着いた対応こそが望まれるとはいうものの、解決策は一向に見えていなかった。

 ところがこの歳になって、解決のヒントが見えてきた。この春、寒暖の差が大きくて、風邪をひいてしまった。何日も風邪気が抜けない日が続き、とにかく睡眠を心掛けた。するとどうだろう、全身の筋肉が弛緩してハリやコリがなくなっていくのが分かった。
 こうなると不思議なことが起きてきた。ゴルフの飛距離が延びた。カラオケのリズム感が良くなった。どちらも手応えが違った。ゴルフでいえば、球が捕まるとか運べる感じ、カラオケでいえば音が捕まえられる、曲に乗っていける感じ。

 手応えが悪いときはリラックスするに限るということだろう。若者との付き合いも同様にありたい。力めば力むほど、まともに捉まらない。

肉の味

 日本の料理に肉が登場したのは、野菜の煮つけやカレーの具が先で、肉だけを食べられるようになったのは、そう昔のことでないと義兄はいう。言われてみれば、野菜の中に肉を見つけて喜んでいたのもそう昔のことではない気がする。
肉そのものを食べたのはジンギスカンだったけど、大人も子供もその味に大満足だった。
 先般、若者と居酒屋で食事をした。お刺身とビールを注文して、仕事の話を始めたが、全然乗ってこない。追加の注文を焼き魚にするか煮魚にするか聞いたが、もじもじして要領を得ない。問い詰めたら、和牛ステーキがメニューにあるけど頼めるのかと聞いてきた。「ここの居酒屋は味のレベルが高いから大丈夫」と注文してあげて、そのステーキを食べたらとたんに表情が一変した。「まさかこんなに美味しいとは思わなかったです。」と大喜びをして店主にお礼を言っている。
それを見た瞬間、「こいつは肉の味を知っているな」と直感した。
 我々が嬉々として食べていたジンギスカンは、遠くオーストラリアやニュージーランドから船便で輸入されたもので、ロール状に固められ冷凍されていた。それを薄くスライスして独特の鍋の上で野菜と一緒に焼く。美味しさの秘訣は、羊肉の油とたれの味だ。その後、焼き肉屋さん隆盛時代があって、今も続いているが、これもたれの味からスタートし、最近ようやく、チルド肉、炭火焼きまで進化した。
 しかし、肉の本当の美味しさは、焼いた生肉を嚙んだ途端に口の中に広がる肉汁のうま味だ。このうま味を得るには、肉に含まれるうま味成分と適度の肉厚が必要になる。この味を舌が一度覚えたらもう忘れない。
 近年、海外で和牛が人気と聞く。日本の牛肉の歴史はわずか50年くらいのもので、短期間に世界のトップに登り詰めた格好だ。日本人の舌はなんと優秀なことか。うま味に対するあくなき探究心が、和食が世界でブームを巻き起こしている最大の要因だ。

啓蟄


 3月5日は、暦の上での啓蟄(けいちつ)である。土の中で眠っていた虫たちが、暖かさにつられ、蠢(うごめ)き、外に出る日だという。人類の素晴らしい観察力というか、発想の豊かさに驚かされる。
 我々も生き物なので、春になれば硬かった身体に鞭打って動き出す本能を持ってはいるが、歳とともにそのエネルギーは貧弱になり、意欲も薄れてくる。どの時点を起点として動き出すのか、それとも動き出さないのか?動いているのかいないのか?身体のメリハリが効かなくなるのは身体的なものなのか精神的なものなのかも良く判らない。
 植物の多くは、冬に葉を落として冬眠に入り、春になると新しい芽を吹いて生まれ変わって来る。人間も、そのように一年に一度、生まれ変わってくれれば楽しい。新しい芽とは、さしずめ、弾力のある肌、軟らかい筋肉、黒い髪、メガネのいらない眼、新しい歯、毎年こんなにたくさんのプレゼントをもらえるなら、どんなに苦しい寒さもしのげるというものだろう。
 ならば、そんなプレゼントもないのに春になれば心が浮き浮きするのはどうしてだろうか?
春は、スプリングというから世界中が浮き浮きするのだろうか?それとも、特に四季がはっきりしている日本だからそう感じるのであろうか。
啓蟄は、心も蠢くということなのだろう。新しい肉体はもらえなくとも、せめて一年に一度くらい新しい心を持ちたいものだ。新入社員が入り、人事異動が発表になるこの時期、気持ちを新たにして、地上に這い出してみてはいかがでしょう。

手を合わせる

 神棚に手を合わせるのは、我が家の朝の習慣である。
 女房の母が神道である以外誰も宗教に関心はないものの、毎日揃って手を合わせている。

 二礼二拍手をしたのち、手を合わせ一礼するまでのわずかの時間に家族が何を考えたり祈ったりしているのかには興味をそそられる。
 誰が何を考えているかを推し量ることはできないし、何かを唱えているかどうかも分からない。毎日同じことを考えたりお願いしたりしているのか、きちんと言葉にしているのかも改めて聞いてみる気はないが、

 自分にとって、手を合わせる行為はむしろ自分の心に語りかける時間になっている。

 少し背筋を伸ばし、しばし目を閉じて「他人のせいにしていないか」とか「酒を飲みすぎませんように」とか「他人に優しく接しますように」とかである。欲を出せばきりがないので、お願いはあまり考えていないが、「いい天気になりますように」とか「問題が発生しませんように」など希望的なお願いはすることがある。

 一緒に手を合わせている家族が、お金のことや個人的なことばかりお願いしているとしたら寂しい。