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利発な子2

 中国の旧友が、私のブログを日本語で読み上げてボイスブログにアップしているとの連絡が入りました。聞いてみると、最近は日本語を話す機会が減ったのか、発音で苦労をされている様子。加えて、私の文体も文節が長かったり短かったりで、たいそう読みにくそうでした。ならば、耳に心地良く、リズム感のある文章で書いてみようかと思いましたが・・。
 
 さて、テーマは前回と同じ「利発な子」としました。14歳の将棋の強さに驚いて世間の注目が集まっています。30の連勝記録は逃(のが)したものの、中学生が日本記録を塗り替えました。勝利してなお沈着で物静か、こうした態度が国民に好印象を与えました。
 それに加えて、14歳の頭の中を覗きたいという庶民の衝動も見て取れます。人工知能と人間の思考回路は一体何が違うのか。14歳の思考回路を紐解(ひもと)けば、何かしら共通点が見えるのではないかといった野次馬根性も見え隠れしています。
「AIは公式の見えない計算値」「定石も手筋もさておき次の一手」「解答をビッグデータが解く不思議かな」といった心境です。

 一方で、より興味深いのはその人の行動です。知能では太刀打ちできない凡人も興味が引かれる行動力、果たしてその心に宿る強さはいつから芽生えどう発達したのか。

 両親は何に手を貸し、何に手を貸さなかったのか、歴代の師は何を教え、何を教えなかったのか。学ぶとは真似(まね)ることの延長といわれるが、みずからが問題解決に向き合って挑戦し続けることこそが成果につながるのだろう。

 好きこそものの上手なれという諺(ことわざ)があるが、継続する力の源泉はそれだけでもあるまい。
 凡人も問題解決を余儀なくされる現実は、質の上下、レベルの差こそ大きいものの場面は将棋のプロと同じ次の一手である。利発な子に限らず自らの考えで突破する以外に選択の余地はないということだろう。

 30連勝とはいかなくも、せめて次の1勝を上げる喜びに浸(ひた)りたいものだ。

利発な子

 最近、4~5歳くらいの子供の心の動きがよく見えるようになってきた。自我の目覚めとか最初の反抗期とは、もっと低年齢をさすのだろうが、物心がついてくる頃の子供らが何を考えているのだろうと観察していると、個人差の大きさに気付かせられる。

 観察していて分かることは、何を基準に行動しているかだ。親の目を気にして行動している子は意外と多い。親に見つかる、しかられる、甘えられるなど親の動きに合わせてどう行動するかを決めているのだ。親が許してくれるなら甘えん坊になってしまう。さらには親の目を盗むことも、どちらの親に頼めば要求が通るかも計算している。褒められれば大喜び、無視されればふくれる、子供らしいといえばそれまでだが、一方では、自分でものを考え自分の頭で行動している子供がいる。
 自分で行動する子は、遊びも習い事も、テレビの見方もゲームを攻略しているときも、親や周囲に気を遣うことは無い。親からも特に注意されることもない。

 こういう利発な子供の目を見ていると、どこか遠くを見つめていることや、動きがゆっくりしていることが多い。自分は利発な子ではなかったが、どちらかといえば遠くの空を見て育ったように思う。

 ところで、このような両者の違いは、一体いつまで続くのだろう。自ら考える習慣のある利発な子はそのまま大人になれば良いが、そうでない子はどこかの時点で幼児性を克服できなければならない。
 そう考えて周りを見渡せば悲観的にならざるを得ない。きっと大学を出ても同じなのではないか。いや、都合の悪いことを報告しないことや、やたらと結論だけをメモしたがる社会人も相当いるから、社会人になっても同じように幼児的な心理が働いているのではないかと疑いたくなる。
 テストの問題と違って、世の中で起きることは正解が決まっているわけではない。なので、自ら問題意識をもって考えることのできる人間にしか課題を解決することは出来ない。

 どこかのタイミングで、自分の頭で問題を発見し、課題を克服して自信につなげなければ、親の目を気にして行動している4~5歳くらいの子供と一緒だ。

手応え

 松岡修造の日めくりカレンダー、10日は「心のお風呂に情熱の薪をくべろ」とあった。熱意をもって若者に話をしても伝わらないことが多かった最近、いいな~松岡修造は。人間、やはり熱血漢でなくちゃつまらない。

 一生懸命話をしても相手方の反応が鈍いと、何が伝わっていないのだろうと色んな方面から言葉を浴びせる。しかし、そうすればするほど、言葉が空しく空を切ってしまい疲労感だけが残る。「こいつ、何も考えてないな。」と決めつけてしまうのは簡単だが、それでは、見込み違いを決定づけてしまうので良いことではない。
 力めば段々と深みにはまる場面に出くわすと、カラオケやゴルフのスコアを連想してしまう。どちらも力が入れば入るほど手応えから遠ざかっていって深みにはまる。ゆっくりと落ち着いた対応こそが望まれるとはいうものの、解決策は一向に見えていなかった。

 ところがこの歳になって、解決のヒントが見えてきた。この春、寒暖の差が大きくて、風邪をひいてしまった。何日も風邪気が抜けない日が続き、とにかく睡眠を心掛けた。するとどうだろう、全身の筋肉が弛緩してハリやコリがなくなっていくのが分かった。
 こうなると不思議なことが起きてきた。ゴルフの飛距離が延びた。カラオケのリズム感が良くなった。どちらも手応えが違った。ゴルフでいえば、球が捕まるとか運べる感じ、カラオケでいえば音が捕まえられる、曲に乗っていける感じ。

 手応えが悪いときはリラックスするに限るということだろう。若者との付き合いも同様にありたい。力めば力むほど、まともに捉まらない。

肉の味

 日本の料理に肉が登場したのは、野菜の煮つけやカレーの具が先で、肉だけを食べられるようになったのは、そう昔のことでないと義兄はいう。言われてみれば、野菜の中に肉を見つけて喜んでいたのもそう昔のことではない気がする。
肉そのものを食べたのはジンギスカンだったけど、大人も子供もその味に大満足だった。
 先般、若者と居酒屋で食事をした。お刺身とビールを注文して、仕事の話を始めたが、全然乗ってこない。追加の注文を焼き魚にするか煮魚にするか聞いたが、もじもじして要領を得ない。問い詰めたら、和牛ステーキがメニューにあるけど頼めるのかと聞いてきた。「ここの居酒屋は味のレベルが高いから大丈夫」と注文してあげて、そのステーキを食べたらとたんに表情が一変した。「まさかこんなに美味しいとは思わなかったです。」と大喜びをして店主にお礼を言っている。
それを見た瞬間、「こいつは肉の味を知っているな」と直感した。
 我々が嬉々として食べていたジンギスカンは、遠くオーストラリアやニュージーランドから船便で輸入されたもので、ロール状に固められ冷凍されていた。それを薄くスライスして独特の鍋の上で野菜と一緒に焼く。美味しさの秘訣は、羊肉の油とたれの味だ。その後、焼き肉屋さん隆盛時代があって、今も続いているが、これもたれの味からスタートし、最近ようやく、チルド肉、炭火焼きまで進化した。
 しかし、肉の本当の美味しさは、焼いた生肉を嚙んだ途端に口の中に広がる肉汁のうま味だ。このうま味を得るには、肉に含まれるうま味成分と適度の肉厚が必要になる。この味を舌が一度覚えたらもう忘れない。
 近年、海外で和牛が人気と聞く。日本の牛肉の歴史はわずか50年くらいのもので、短期間に世界のトップに登り詰めた格好だ。日本人の舌はなんと優秀なことか。うま味に対するあくなき探究心が、和食が世界でブームを巻き起こしている最大の要因だ。

啓蟄


 3月5日は、暦の上での啓蟄(けいちつ)である。土の中で眠っていた虫たちが、暖かさにつられ、蠢(うごめ)き、外に出る日だという。人類の素晴らしい観察力というか、発想の豊かさに驚かされる。
 我々も生き物なので、春になれば硬かった身体に鞭打って動き出す本能を持ってはいるが、歳とともにそのエネルギーは貧弱になり、意欲も薄れてくる。どの時点を起点として動き出すのか、それとも動き出さないのか?動いているのかいないのか?身体のメリハリが効かなくなるのは身体的なものなのか精神的なものなのかも良く判らない。
 植物の多くは、冬に葉を落として冬眠に入り、春になると新しい芽を吹いて生まれ変わって来る。人間も、そのように一年に一度、生まれ変わってくれれば楽しい。新しい芽とは、さしずめ、弾力のある肌、軟らかい筋肉、黒い髪、メガネのいらない眼、新しい歯、毎年こんなにたくさんのプレゼントをもらえるなら、どんなに苦しい寒さもしのげるというものだろう。
 ならば、そんなプレゼントもないのに春になれば心が浮き浮きするのはどうしてだろうか?
春は、スプリングというから世界中が浮き浮きするのだろうか?それとも、特に四季がはっきりしている日本だからそう感じるのであろうか。
啓蟄は、心も蠢くということなのだろう。新しい肉体はもらえなくとも、せめて一年に一度くらい新しい心を持ちたいものだ。新入社員が入り、人事異動が発表になるこの時期、気持ちを新たにして、地上に這い出してみてはいかがでしょう。