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【 不都合な真実 】

徒然
07 /16 2019

情報化社会になって、世界のグローバル化は一気に加速しています。
グローバル化という言葉に違和感はありませんが、今後拡散する情報産業のグローバル化は、人類にとって不都合な真実となるかもしれません。
世界のリーダーは誰一人その不都合な真実を口にしません。彼らは、地球はいずれグローバル化に洗われるという必然性を認識しており、グローバル化に抵抗することが歴史を逆転させるほど馬鹿げていると考えているのかもしれません。
これまでもそうであったように、今後も同様にグローバル化が押し寄せてくるでしょう。ですが、これまでの常識を超えたグローバル化社会は、多くの不都合を伴って拡大するという真実に目を背けてはなりません。

ソビエト連邦の崩壊により、東西冷戦が終結しました。冷戦はグローバル化拡散の最大の砦でした。
資本主義が際限なく広がることを封じる仕組みが共産主義の罠でした。貧富の差が大きくなれば自動的に共産主義の罠にかかり、国は共産主義に染まり、資本家は命からがら逃げださなければならなくなると信じられていました。

しかし勢いは止まりません。
グローバル化は共産主義という枠から解放されただけではなく、拡散の速度も猛烈にアップしました。グローバル化の担い手である企業は、金融情報産業なので、距離、時間という物理的条件に拘束されません。また、多くの国を駆け巡るので、独占禁止法の網に掛かりにくく、更には、大きな設備を要しないことから、課税するのも容易ではありません。
グローバル化に洗われることは、ほんの一握りの富裕層とそれ以外の人々しか存在しなくなることを意味します。

さて、自由主義経済は、神の見えざる手が最後は勝利すると教えられてきました。国民主権、民主主義、少数意見の尊重、どれもが神の見えざる手を意識してのことです。胸に手を当てて考えれば何が真実で何が正義かが分かる。天は自ら助くる者を助く、神の御心さえも同様でした。
人類はこれから史上類のない混乱に遭遇することになります。
胸に手を当てて考えたことが裏切られる、これまで正義として教え込まれていたことが敗北する、そうした現象が地球規模で頻発する時が迫っています。
人類の英知がこれを乗り切るのか?人々の精神力が経済の誘惑を断ち切れるのか?結果は安易に予測できません。
しかし、それはまさしく不都合な真実なのです。


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 【 夢の社会 】

徒然
06 /14 2019

又々、人工知能からの展開で恐縮なのですが、AIが仕事を奪うという危機感が叫ばれる中、一方で「人はこの先働かなくてもよくなる。」という夢のような話がまことしやかに囁かれています。

これまでの産業革命の歴史を振り返ると、人畜の力が蒸気機関、内燃機関に、更には電動に取って代わられました。パワーの源が変化したことにより、肉体労働は著しく減少しました。
代わって頭脳労働が主役となり、学歴偏重社会や技術者不足を招きました。労働が軽易になったことによって、人は、重労働から解放され、そのことに異を唱えた者は消え去り、そのことを前向きに受け止めた者は新しいエネルギーを活用して新しい仕事にありつきました。機械を動かすオペレーターや修理する技術者、さらにはその機械を制作する者と様々な職業が誕生し、収まるところに収まった感じです。

AI・ITの発展も、事務作業、頭脳労働に縛られることから解放される訳で、解放された人々は、当面、人工知能を活用しコントロールする者、人工知能を修理する者、人工知能を開発する者等に分かれるでしょう。このような現象によって、労働時間は短縮され、人々はより楽な生活を送るであろうことは想像に難くありません。
どちらの革命を通じても、一人当たりの生産効率は著しく上昇することとなり、人々は苦役から解放されるという社会がぐっと身近になる気がします。
しかし、このような想像を真に受けて、バラ色の生活が待っていると安心できる人はまず居ないと思われます。自分を含め、庶民感覚としては、見えない何かに不安を抱き、何かに怯えているのではないでしょうか。

では、冒頭の「人はこの先働かなくてよくなる。」と言われて素直に信じることのできない本当の理由は何なのでしょう。
一つには、自分が取り残されるのではないかという不安があります。しかし、それよりももっと問題なのは、この先、何が人の優劣を決めるのかという新しい物差しの基準が見えないことではないでしょうか?

体力、知力の次に来るものを敢えて言うならば、私は、魅力だと考えます。
心の魅力、発想の魅力、見た目の魅力こうしたものの大きさが、可視化され、目盛りとして映るのが次の時代だと思います。富の差はこれまでより大きくなり、本当に一部の富裕層とそれ以外の人々に別れるかも知れませんが、その基準は魅力ある人間かどうかという点に集約される気がします。

魅力ある人物は、AIをもっても代替できません。
そばにいて欲しいと思われる人間が最も成功者に近い社会がすぐそこに来ています。


【 連休明け 】

徒然
05 /07 2019

改元に伴う大型連休が終わりました。いつにまして心も身体もだるくて重いのは自分だけではないでしょう。

あれは、高校2年の5月だったと思います。
夏の高校野球大会を前に、我校の応援団は危機的状況にありました。現役の団員が少ないうえに、新入生の勧誘も上手くいかず、部員数が通常の半数以下という非常事態に突入しておりました。
そこで、生徒会の下した決定は、各クラスから最低1名の応援園団員を選出するという荒療治でした。

今も昔も、後輩世代は先輩方から厳しいお言葉をいただいております。当時、我々の世代を指す呼び名は、「無気力・無関心世代」という言葉で、団塊世代の先輩方から見ると何とも頼りのないしらけ世代という眼であったようです。
こういう世代だからこうした問題が起き上がったのかどうかは定かではありませんが、この問題はクラスでは衝撃でした。

ホームルームでは、生徒会の決定に対する不満も多く出ましたが、現実に誰かが対応しなければならないとの意見が大勢を占め、このクラスからも応援団員を選任することになりました。
ところが、総論賛成各論反対ではありませんが、いざとなると誰もが自分だけはやりたくないと手が挙がりません。もう時間もなくなってきた頃、少し悪ぶった連中が推薦の口火を切りました。標的にされたのは一番体格が良くて、少し気の小さいA君でした。クラスは1年生から同じ顔ぶれなので、お互いの強さも弱さも分かっていたのと、体育会系のクラブに所属していないことが条件だったので、A君にお鉢が回ってしまいました。
A君は、最初猛反対をしましたが、多数決では勝てないと思ったか、「ならば、もう1人選んで欲しい。」と、半ば涙声になって訴えました。でも、誰も巻き添えになりたくないので、悪ぶった連中を中心に、「早く多数決で決めようぜ。」と繰り返しました。

ところがその時、突然B君が、「俺がやる」と挙手をしました。周りはあっ気に取られました。確かにB君も体育会系のクラブには所属していませんでしたが、彼は真面目人間のグループで、応援団には明らかに不向きでした。でも、この状況では誰も反対はできず、教室は静まり返りました。1人喜んだのはA君で、急に元気になりました。結局、我クラスは、2名の応援団員を選出しました。
その夏、B君も大声をあげて応援団の練習をしていました。クラスの他の連中は、無気力世代よろしくその後は誰もこの出来事に触れませんでした。

さて、肝心の野球部は、1回戦勝利、2回戦全校応援の甲斐もなく敗退。その夏は、地区大会予選であっけなく終わってしまいました。
でも、A君もB君も3年生のクラブ活動が終わるまで応援団員でした。

【 人に寄り添う 】

徒然
04 /12 2019
今月に入って、従業員の一人が第一子を出産しました。
報告メールは、とても嬉しそうで、幸せにあふれていました。少しうらやましくなりました。
人は、誰もが祝福されて生まれてくるものだと改めて、気付かされました。

一説には赤ちゃんの生まれる確率は1千兆分の1以上といわれています。その、奇跡的な確率をくぐりぬけて生まれた命は、両親にとって、家族や親せきにとってかけがえのない存在であり、周囲の希望を一身に背負って、祝福されて生まれてきます。
よく妊婦にはツキがあると言われます。妊娠中は、何をやってもうまくいくともいわれますが、このことは、宿った新しい生命と無関係では無いと考えます。
超難関を征して誕生したツキのある生命体を宿した母親には、計り知れないツキが宿っています。この生命誕生への祝福が、新しい命が育つ力の根源になります。言い換えれば、人は誰もが成長を期待されて生まれてきているのです。

話は変わりますが、植物は移動ができないのにとても長生きをします。樹齢3百年とか5百年とかの大木も珍しくありません。
木の種は、吹く風に流され、あちこちの土の上に落ちます。水分や光の当たり具合など成長の条件が整った種だけが、その場で芽を出し、根を張って成長することができます。

人間も根本は似ています。
周囲の期待に気付くことができて、人は一人前に育つ準備を始めます。
1学年1クラス30人にも満たない田舎の小学校に通学していた頃、4年生の時の担任に初めてふつうに自分を見せることが出来きました。
先生は、自分の話をよく聞いてくれた。
寄り添ってもらって、自分の存在が祝福され、成長を期待されていることを知って心を開いた。
暖かい思いやりと祝福に囲まれた場所で、いずれ自分も他人を思いやり祝福できる人間になろうと決意した記憶があります。

寄り添う気持ちに目覚めると、周りの成長も見えてくる。
幸せにあふれた人々の集団をつくることは、さほど難しいことではないと思います。

【 北国の春 】

徒然
03 /18 2019
寒かった北海道にも、やっと春が近づいてくる。
春の気配は、ある時は、徐々に多くなる南風の日、風が根雪の表面を溶かし、ザラメ雪が目立ってくるとき。またある時は、木々の芽が日差しを求めて徐々に柔らかくなり、芽吹く準備を伝えて来るとき。

もう何も考えることができなくなった母だが、この時期になると、体調が良ければ、陽気に誘われてか、千昌夫の「北国の春」を口ずさむ。自分が20代の頃、盆暮れに帰るときっと嬉しかったのだろう、家事をしながら当時流行っていたこの曲を鼻歌で歌っていたものだ。
この曲の「こぶし咲くあの丘北国~の」の歌詞は大好きだ。まだ黒い北国の山肌にポッと咲く真っ白なこぶしの花は、可憐さと力強さの両面を持ち合わせていて、北国に住む人々の春への期待をこの花が代表して伝えてくれる。
だが、「あの故郷へ帰ろかな、帰ろうかな~」は、若い時分は非常に厄介で苦手な歌詞だった。

若者の例にもれず、自分も20代の頃は自分探しに明け暮れ、与えられたであろう自分の使命を捜し求めていた。将来が見えない不安が故郷への郷愁をより一層膨らませ、青春の焦りともがきに悩む日々もあった。
歌詞はいくつになっても故郷の山々を思い出させてくれたが、それはいつも甘酸っぱい青春の日々とセットになっていた。

近頃、母の病は確実に進行している。もう15年も前に逝った父親を思い出し、突然姉に向かって「お父さん、今日は会合があって見舞いに来られないんだと」と言った。
何を思い出しているのか知る由もないが、陽気につられて歌う「北国の春」は歌詞も音程も昔とそう変わらない。
春がそうさせるのか、人がそうさせるのか、どちらがどうかは分からないものの、口をついて出てくる鼻歌は、母にとっては心の歌なのだろう。けど、見る側聞く者にとっては、哀れでもある。

人生探しに疲れた頃、やっと回りが見えてきて、使命は、自分の中にあるのではなく、自分の周りにあるのだということに気付かされた。周りが必要としているから自分が生まれ、そして周りの環境に育てられたのだと納得した。
忙しく働き詰めだった母は、人の役に立つことが自分の使命だなんて、考えたことがあったのだろうか。
しかし、仮に何も考えなくても結局そうやって生きている。そうやって普通に生きている人のほうがむしろ幸せだ。

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