Latest Entries

危険な懸垂(けんすい)

 今年の秋は気温差が大きい年だ。突然寒波が押し寄せて、前日との気温差がマイナス10℃にもなる日も珍しくない。
こんなに寒くなれば、ついつい熱燗が恋しくなる。だがしかし、いつの時代にも酒は魔物だ。

 先日、取引先に招かれて、社長とそこの若い担当者で席を囲んだ。
ビールで乾杯したが、美味しい料理が出されて、すぐに日本酒となった。

 若者は元気が良い。どれだけ飲めるのかと思うほど速くお銚子が空いてしまう。この調子ではこちらが参ってしまう。
段々と慎重になって、呑ませることに集中する。
相手が盃を口に運ぶタイミングに合わせて、注ぐ側がお銚子を持つのが極意だ。そうすれば、飲んで顔を戻すと目の前にお銚子があって、注がれざるを得なくなってしまう。
これは自分が30代の時に、お通夜の席で隣に居合わせた叔父さんから教えられたものだ。
みんなこうして先輩に飲まされて成長してきたのだ、などとひとり悦に入り、お陰で正体を失うことなくその場を切り抜けた。

 さて、ふらふら廊下から出ると、玄関前のくぐり戸に程よい高さの鴨井があった。その瞬間、もっとおもしろいことを思いついた。
「この鴨井で懸垂ができるか?」と聞いた。上機嫌になった若者はすぐに飛びついた。一回目、二回目、三回目は少し時間がかかった。「やったー」と声を上げた顔が更に紅潮していた。
 それから50メートルも歩いただろうか、背後からウェウェという唸り声が聞こえてきた。
一緒だった社長は「お前、歩道を汚すな。」と、もっと残酷なことを言い放っていた。
次の店で少し元気になったのを見計らって、「大丈夫か?」と聞いたら、平然とした表情で「懸垂のことも吐いたことも覚えていない。」といった。

危険だな!と思った。

目方(めかた)

 だれにも、「目方」が気になる食欲の秋である。
中高年にとっては、体重や重量といわれるより「目方」といわれるほうがしっくりくる。

その昔、重量は、基準となる重さの物体と計られる物を天秤ばかりにかけて、どちらに傾いているかで計測したというから、案外そのあたりの光景が、「目方」の語源かとも思う。
針がプラスに振れるかマイナスに振れるかで一喜一憂している昨今の自分は、まさに目の出方が気になるわけで「目方」といわれると、ふと緊張感が走る。

今朝のテレビで、葛飾柴又に建つフーテンの寅さん像が写っていた。
普段から目方を気にしているせいか「男はつらいよ」で、渥美清が歌う、目方~で♪男が決まるなら♪こ~んな苦労は♪というフレーズを連想してしまった。
そういえば、最初に「男はつらいよ」を観たのは、高校の冬休み。同級生の畠山と行った映画館だった。友達と映画に行くのも初めての経験だった。
画面の寅さんの身振りとセリフにお正月の映画館は笑いの渦になっている。なのに、自分は寅さんの心境になり切ってか、ぼろぼろと涙が出てしまう。その止まらない涙を畠山に見つからないように拭くことに必死だった。
「目方」で決まらないなら、何で男の真価が決まるのか。なんで自分だけこんなに涙が出てくるのかよく分からなかった。それと、寅さんの純真無垢な性格を観客と一緒になって笑う気にもなれなかった。
あれからもう50年近くにもなる。いつの間にか、寅さん以上の「目方」になったが、少しだけ分ったのは、男にも世の中にも「人情」が大切ということだ。

恋とも愛とも少し違う心の奥底にある「人情」が、せちがらい世の中の灯りとなり人間関係に潤いを与えてくれる。
人情あふれる社会は、なんと平和で健康的なことか。

秋は、人恋しさを招く。人恋しさが人情を醸成するのか、秋は、ほかの季節より少し優しくなれる気がする。
ふと自分を振り返れば、厳しい現実が待っている。いくら「人情」に厚くても、男の「目方」が減る訳ではない。

夏から秋の空

 北海道の夏は短い。ひこうき雲に気づいて空を見上げたら、低くたなびく夏雲の上空に秋の高い雲が現れていた。

 そういえば、父が世を去る前の年、病院に向かっていた車の窓から見た空も、こんなふうに夏から秋への雲が漂っていた。
父は、入院してからすっかり元気をなくしていた。元気になってほしかったが、どうすればそうなるか分からなかった。何気なく、「また元気になって、おもしろいことをやろう。」と話しかけると、「もう何にも、人の役に立つようなことは出来ない。」と返ってきた。
 父の口から素直に発せられる言葉を聞いて、月並みに「生きているだけでいいんだよ。」などと曖昧な言葉を掛けられる雰囲気でなくなってしまった。

 戦争の波にのまれ、波乱万丈の人生を生きてきた父に、「生きているだけでいい。」などという人生観は無いのだ。用の無くなった者は、死んでいくのが当然という人生観を貫くことに何の迷いも抱かない人生だったのだろう。
 山ほど苦労をしたはずなのに、苦労を愚痴ったのを聞いたことがない。何もかも、ありのままに受け容れて生きてきたこと。そんな人だった。

 そうこう思いめぐらすと、話し掛けることが億劫になって、置いてあった電気カミソリで、伸びたひげを剃ってあげたくなった。
髭の濃いのは元気なころと一緒である。力の加減が分からないものだから、他人の顔を剃るのは難しい。カミソリがゾリゾリと音を立てながら移動して、頬のあたりに来た時、父は口に息を溜めて頬を膨らませた。髭が剃りやすくなればとの私への配慮からだろう。目頭が熱くなった。この期に及んでも人に迷惑を掛けない、人の役に立つことを考えてのことなのか。話せることがもっと無くなってしまった。

空を見上げていたらそんな昔のことを思い出した。

異常気象

日本の夏は、一昔前まで風鈴を下げたり打ち水をしたりと、静かに暑さをしのぐ知恵がそこかしこに見られ、耐える国民性と相まって、この国の美しい情景を発見するのにぴったりの季節であった。それがどうしたものか、近年は、各地で暴風雨、洪水、土砂崩れ等の災害が頻発し、すっかり騒々しい季節となってしまった。

  地球温暖化の体験とか、日本の気候が温帯性から熱帯性に移行する歴史的な場面に遭遇しているとかいわれても、濁流に呑まれたたくさんの草木や田畑が、無残に押し流されていくさまを目にするのは心が痛む。

  何年もの歳月が無駄になったというのは、何も人間の損得の話をしているのではない。成長した植物が一瞬にしてその生涯を閉じなければならないことの非情さ、無念さから来る痛みである。自ら移動する手段を持たない植物は、避難することも防御することも叶わないわけで、まさに座して死を待つのみである。
  異常気象がもたらすしたこうした災害は、日本に限らず世界中どこでも頻発している。
  しかし、生物の力強さはその先にある。剥ぎ取られて禿げた地肌には、あっという間に新しい植物の芽が息吹く。明るく開けた土地が出現したおかげで、これまで芽を出すことのできなかった植物が芽を出す。それは光が差し込まなかったり、水分が無かったりかもしれないが、何年も眠っていた一粒の種が新しい命を繋ぐのは感動ものだ。
  
人道教育では、人の命は地球よりも重いと植え付けられて久しいが、自然界においては、何の説得力もない。自然災害においては、一人の人間も一本の植物も全く同等の命で、声高に人命の尊さを訴える根拠はどこにもない。
  地球に生息する全ての生物は、地球という運命共同体の一員であって、絶滅するか否かは災害があっても生き残れるかどうかということだ。そもそも地球が滅びたなら、生き残れる生物がいるかどうかなど誰にも予測できない。
  
進化する以前から「人」の遺伝子を連綿と繋(つな)いできた一つ一つの命、一人一人は遺伝子の伝承者である。「人は、遺伝子を受け継ぐために生まれた。」と言われては寂しい限りだが、一方でこの現実を受け容れなければならないのも事実だ。新しい環境で遺伝子を繋(つな)ぐことが出来る種だけが生き残るのであり、このことを抜きに人類を語ることも出来ない。

利発な子2

 中国の旧友が、私のブログを日本語で読み上げてボイスブログにアップしているとの連絡が入りました。聞いてみると、最近は日本語を話す機会が減ったのか、発音で苦労をされている様子。加えて、私の文体も文節が長かったり短かったりで、たいそう読みにくそうでした。ならば、耳に心地良く、リズム感のある文章で書いてみようかと思いましたが・・。
 
 さて、テーマは前回と同じ「利発な子」としました。14歳の将棋の強さに驚いて世間の注目が集まっています。30の連勝記録は逃(のが)したものの、中学生が日本記録を塗り替えました。勝利してなお沈着で物静か、こうした態度が国民に好印象を与えました。
 それに加えて、14歳の頭の中を覗きたいという庶民の衝動も見て取れます。人工知能と人間の思考回路は一体何が違うのか。14歳の思考回路を紐解(ひもと)けば、何かしら共通点が見えるのではないかといった野次馬根性も見え隠れしています。
「AIは公式の見えない計算値」「定石も手筋もさておき次の一手」「解答をビッグデータが解く不思議かな」といった心境です。

 一方で、より興味深いのはその人の行動です。知能では太刀打ちできない凡人も興味が引かれる行動力、果たしてその心に宿る強さはいつから芽生えどう発達したのか。

 両親は何に手を貸し、何に手を貸さなかったのか、歴代の師は何を教え、何を教えなかったのか。学ぶとは真似(まね)ることの延長といわれるが、みずからが問題解決に向き合って挑戦し続けることこそが成果につながるのだろう。

 好きこそものの上手なれという諺(ことわざ)があるが、継続する力の源泉はそれだけでもあるまい。
 凡人も問題解決を余儀なくされる現実は、質の上下、レベルの差こそ大きいものの場面は将棋のプロと同じ次の一手である。利発な子に限らず自らの考えで突破する以外に選択の余地はないということだろう。

 30連勝とはいかなくも、せめて次の1勝を上げる喜びに浸(ひた)りたいものだ。